sweet20005657の日々

日々思うことを…

朧月夜

夕闇は去り風が夜をゆっくり運んでくる。闇とその匂いがなだらかな倦怠にながれてゆく。いま明日の仕事の資料に目を通していたら、ふとラジオから小さな雨音と共に唱歌「朧月夜」が流れてきた。

 

俺が小6の頃、同級生に軽度の知的障害のあるOという女の子がいた。ある日、水泳の授業の前の着替えの時間になり、男子も女子も皆それぞれに恥ずかしがったり、大声を出したり騒々しく更衣をすませ教室から飛び出していった。プールへ向かう途中の校庭で、俺は教師から呼ばれ「Oさんはどこに居るか」と聞かれたので返答に窮した。

見当たらないのだ。実をいうと俺は以前先生からこの子のことを色々と配慮するよう依頼されていた。俺はクラス委員であったので了解していたが教師の申し出に違う響きも少なからず感じていた。その理由が今は判然としないけれど、この女子が俺に好意を持っているという噂が教室内に流布しだした事がきっかけだったように思われる。

教師の問に不安になり教室に戻ってみると、ひっそりとした部屋にまだOさんが一人更衣をするふうでもなく佇んでいた。俺は「どうしたの」と声をかけた。その子は俺に微笑み「きがえさせて」と言った。一瞬たじろいだ。しかし俺は焦っていた。授業が始まる。数秒の躊躇ののち、じわりと決意し、着替えの実行へと判断が進んだ。Oさんはすでにゆっくり服を脱ぎ始めていた。時間がせまっているのだから俺も水泳着を手に共同作業に入った。いつの間にかOさんはほぼ裸になり、なんとか着替えさせていたのだが、ふといまここに誰かが飛び込んできたらどう思われるだろう、と急に不安になった。その気持ちが頭の中の多くの位置を占め出した。誰か女子を呼びにいけば良かったのだろうか。いや、Oさんをひとり置いて?と同時に何と男らしくない奴だという反論も少しばかり湧いてきた。ちょうどその思いが優位になったとき更衣は終了した。Oさんは俺をじっと見ていた。「ありがとう…」と笑い手を握ろうとしてきた。俺は軽く握り返しながら少し安堵した。着衣の乱れがないか確認する余裕すら生まれた。そして僅かに胸を張った。

何故?

論理も倫理も道義の入り口にさえ立っていないであろうその当時の俺が。自分を認めたい思いに駆られたのか、それは彼女への優位の観念からくるものなのか…

何の?

その時は具象化できないでいたのだが…ただそのあと二人で急いでプールへ走っていったことは覚えているのだけれど。

 

そして一週間と経たないある日、いつものように給食時間がやってきた。俺たちのクラスは担任教師の発案で給食時、食事が終わった頃合いに生徒同士でなにがしかの発表をするという行事があった。それは誰かが生徒の名前の書いてある中からクジを引き、その引き当てられた者が皆の前で得意とするものを表現するという、不得手の者からすると給食中に皆の前で芸をしろというような代物であった。

夏の日差しの強いこの日、Oさんがクジに引き当てられた。その刹那に皆のこころが泡立った。誰も想像していなかったのだ。ふいに静寂が現れた。風の入らない教室はじっとりしていて、額の汗を拭う者もいた。俺はどきどきしていた。何をどうやって、どのように、どういった流れが、この状況のレールの上を滑っていくのだろう。何か発言すべきだろうか、俺は迷いうろたえこころなしか震えた。するとOさんが突然立ち上がり、いつもの笑みをたたえ、前傾姿勢で前へ進んだ。静かに登壇し振り返り、ゆっくりお辞儀をした。そして歌い始めたのだ。「朧月夜」をーー

皆は息を呑んだ。発せられた言葉は「菜の花…」であった。それは高音の抑揚のない、トーンは一本調子であるが、しっかりとした足取りでどこか一点を見つめているような意志が込められ。いやこめられた高湿の歌声の中にある思いが凝縮され全員に崩れる光を降り注ぎ、俺に深い祈りを投げかけていた。歌が終わりOさんが席についたとき、教室は反応を忘れた時計台のように静まり返った。俺は泣きたくなった。

 

それ以来この曲は、いつも俺を12の頃の給食時間へと連れていく。

 

   菜の花畠に  入日薄れ

   見渡す山の端 霞ふかし

   春風そよふく 空をみれば

   夕月かかりて 匂い淡し

 

   里わの火影も 森の色も

   田中の小路を たどる人も

   蛙のなく音も 鐘の音も

   さながら霞める 朧月夜

 

ああ、君よ。憶えていて下さるだろうか。さるあの日、夏の午後、水着を君に着させた僕のことを。恐らく同年代になったであろう君は、「朧月夜」を春のある夜には歌っているのだろうか。

 

が、君の声は、いま僕に2番の4行目を投げかけている、よ。さながら霞める朧…僕はあの頃の君と同じように一点を見つめている。虚無という山の端を…意識という朧月夜の中で…